診断されるされないで何がかわるかについて

診断の必要はないと言った先生のいる病院の受付に電話をした。
予想外の展開に、動揺し、パニックに陥り、もうどうしたらいいのかわからないと伝えた。
もし、うちの娘が、深刻な発達の遅れを持っていた場合、同じようにわたしが楽天的な性格ゆえに悩んでいるように見えなかったとしても、同じように「診断の必要はない」と言うのか? と。

それに対して、受付の言語療法士さんはこう言った。
「それは先生の判断になるのですが、診断するしないに関しては、ある一定の基準というものがあるのですよ。それをクリアしていれば、診断の必要はないということになるし、深刻な遅れが実際にある場合は、診断の必要はないとは先生も言わないでしょう」

要するに、ほんとうに、うちの娘は、そんなに心配する必要もなかったというわけだ。
これには正直安堵した。
「どうしても不安が強いのであれば、もう一度予約を取りますがいかがしますか?」
と言われたが、「いや、いまのところは大丈夫です」と断った。

まだ産まれたばかりで、どの子も同じようにしか見えないのに、子どもにとっては、発達障碍の診断をされるされないで、置かれる環境ががらりと変わるのだ。

自閉症だのダウン症だの知的障害だのと診断された子どもは、怒られない環境で育っていくことになる。出来たことはほめられて強化され、好ましくない行動はスルーされる。これには、説明すると長くなるが、ちゃんとした理由だの根拠だのがあるのだが、うちの娘のように、まだ診断するのが難しい年齢で疑いをかけられてしまっている場合も、同じ環境で過ごすことになる。

しかし、3歳を過ぎてから、発達障碍ではないと言われてしまった場合、定型発達の仲間に入れられてしまうことになるのだけども、そうすると、先生や大人たちから容赦なく怒られてばかりの環境で過ごすことになる。

急に、環境ががらりと変わるのだ。ま、でも、幼児の間は、頭ごなしに怒鳴りつけられることはないだろうと思う。でも小学校に入ると、支援学級にいる先生と、普通学級の先生とがまったく違う態度なのでびっくりする。怒られてばかりで我慢するか、怒られずに褒められてすごすか、どちらを選びたいかで進路を選択するグレーゾーンのお子さんの親も多いかもしれない。